制度は完璧なのに、なぜ浸透しない? 健康経営を阻む「見えない空気」の正体と、組織文化を変える処方箋
本稿は、企業の健康経営と労働安全衛生を20年以上にわたり支援する、さんぎょうい株式会社による連載記事です。前回の「次々にやってくる困難、女性は仕事を諦めるべきなのか? 健康問題とライフイベントを突破したRさんの話」に続き、実際の支援現場で見てきた実例をもとに解決策を示していきます。今回のテーマは「健康経営の定着」。健康経営が定着しない理由と、効果的な解決策を解説します。
目次
制度は完璧なのに、なぜ浸透しない?
健康経営優良法人の認定制度は、企業価値を高める重要な指標となっています。この制度では、法令遵守を前提に、企業に対して健康経営に関する積極的な取り組みを推奨・評価しています。特に2026年の認定に向けては、育児・介護・傷病治療などの両立支援施策を充実させ、在宅勤務や時短勤務制度の拡充、相談窓口の強化などを進めています。これにより、多様な人材が能力を最大限に発揮できる環境づくりが推進されていきます。しかし、ここで一つの大きなパラドックスに直面します。制度は完璧なのに、なぜ現場で使われないのか?多くの企業で、両立支援制度が導入されても、実際の利用率は低いという、皮肉な実態があります。制度設計そのものに問題があるわけではありません。利用を阻むのは、法律やルールといった「見える壁」ではなく、職場に漂う「見えない空気」、つまり組織の文化そのものが抱える問題なのです。本記事では、この「見えない空気」の正体を明らかにし、真の健康経営を実現するための具体的な処方箋を提示します。
利用を阻む「見えない空気」の正体:アンコンシャスバイアスと心理的安全性の欠如
「善意のつもり」がキャリアを閉ざしてしまう、アンコンシャスバイアスの影響
従業員が助けを求めることを躊躇わせる「見えない空気」の背景にある要因は、私たち誰もが持つ「アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)」です。これは、特定の意図的な差別ではなく、脳が情報処理を効率化するために無意識に作り出す固定観念です。
アンコンシャスバイアスは厄介なことに、しばしば「思いやり」や「配慮」といった「善意の顔」をして現れます。例えば、上司が部下に対して「彼女は母親になったばかりで大変だろうから、責任の重いプロジェクトは任せないでおこう」と判断するケースです。これは、上司本人の「配慮」のつもりかもしれませんが、結果的に相手の成長の機会を奪い、キャリアの選択肢を狭めてしまいます。発言した側に悪気がなかったとしても、言われた側にとっては「キャリアの扉を閉ざされた」と感じてしまうのです。このような「キャリアに響くかもしれない」という不安に加えて、「自分が両立支援制度を使えば周囲に負担をかけるのではないか」という心理的な懸念が一層不安を増幅します。こうしたアンコンシャスバイアスが組織に蔓延することで、「キャリアに悪影響が出るのではないか」「周りに迷惑がかかるのではないか」「上司が理解してくれないのではないか」といった、制度利用への強い心理的障壁が形成されてしまうのです。
制度利用を妨げる心理的安全性の低下とタブー視
アンコンシャスバイアスが職場に蔓延すると、チームの「心理的安全性」は大きく損なわれます。心理的安全性とは、「このチームなら何を言っても、失敗しても大丈夫」という安心感や信頼感のことです。心理的安全性が低下すると、従業員は自分の抱える問題や健康問題を隠すようになり、助けを求めたり質問したり、新しい挑戦をすることが難しくなってきます。こうした心理的安全性の低下は、特にデリケートなテーマで顕著に現れます。例えば、生理痛や不妊治療など女性特有の健康問題では休暇を取りにくいと感じる状況があります。これは、女性特有の健康問題を共有することがタブー視され、さらに「私的な問題は持ち込まない」という暗黙のルールが支配する、職場の心理的安全性の低さを示す典型例です。この状態では、両立支援制度は機能しません。
日本特有の職場文化や人員不足が要因に
制度利用をためらわせる最大の要因の一つが、相互扶助や集団への献身が強く重視される日本の職場文化における「迷惑意識」です。従業員は制度を利用することが、同僚の業務負荷を増やすと見なされることを極度に恐れます。この「迷惑意識」を増幅させているのが、「人員不足で休めない」という構造的な問題です。特に、医療・福祉などの現場で顕著ですが、制度利用による業務の「しわ寄せ」を同僚に強制する構造は、制度利用者に対して同僚への強い罪悪感を抱かせます。この構造こそが、労働者に制度利用を躊躇させる構造的要因となっているのです。
制度の実効性を担保する鍵:現場の司令塔、管理職の高度化
スキル不足が招く、制度と運用の「乖離」
両立支援制度が形だけの制度にとどまるか、実際に機能するかは、現場での運用と調整を担う管理職の能力も大きく関わってきます。制度と実際の運用が乖離する原因には、管理職のスキル不足、特にソフトスキルの不足があります。多くの管理職は、人材育成のためのコーチングスキルや、多様なメンバーを活かす最適な人材配置のスキルなどが不足しています。
形式化する「個別意向聴取」を打破するコーチングスキル
例えば、育児・介護休業法の2025年改正で義務化された「個別意向聴取」は、単なるアンケートではありません。従業員の真のニーズを把握し、不安を解消するためには、傾聴や対話能力(コーチングスキル)が不可欠です。このスキルが欠けていると、対話は形式的な手続きで終わり、従業員の真の意向や隠れた不安を汲み取ることができず、結果として両立支援への不信感を生むことになります。
「最適な人材配置スキル」が人員不足を乗り越える鍵
疾病治療両立支援や育児・介護休業時の業務調整といった個別対応の場面では、管理職の「最適な人材配置スキル」が極めて重要な要素となります。このスキルが不足すると、業務が特定の従業員に集中してチームの業務負荷が増大します。その結果、「人員不足だから」という理由で両立支援制度の利用が事実上難しくなったり、制度を利用したい従業員自身が周囲への配慮から利用を諦めてしまったりする状況が生じます。管理職には、多様なメンバーを個別にサポートしつつ、チーム全体のパフォーマンスを維持する高度なマネジメント能力が一層求められます。管理職の業務マネジメント能力こそが、両立支援制度を「絵に描いた餅」にせず、その実効性を担保する重要な要素となっていくのです。
制度の周知徹底と情報への容易なアクセスが「誤解と不公平」を防ぐ
ある企業で生理休暇の利用について従業員にアンケートを取ったところ、上司から「うちに生理休暇制度はない」「生理休暇は年次有給休暇を使いきったら取得できる」「本当に具合が悪いのか疑わしい」「診断書の提出が必要」「生理休暇は月に1回までしか取れない」「生理休暇を頻繁にとると評価に影響する」といった、法的に誤った説明や不適切な発言を受けたという回答が散見されました。このような管理職による制度内容の誤解や、制度の存在自体を知らない・忘れているといった状況は、アンコンシャスバイアスと相まって、部下が制度の利用を諦めてしまう大きな原因となります。特に、管理職が両立支援を重要なマネジメント業務の一環として捉えていない場合、制度情報やその正しい運用を軽視する傾向が見られます。したがって、制度の周知は全従業員に対して行うだけでなく、管理職層に対し、制度の趣旨と概要を正確に理解させるための研修を実施することが不可欠です。また、従業員が制度を調べたい時に、情報へ簡単にアクセスできるよう、イントラネットなどに情報を分かりやすく整理して掲載することも、極めて重要です。これにより、誤った情報が広がることを防ぎ、誰もが安心して制度を利用できる職場環境の構築につながります。
真の健康経営へ:文化変革のための二つの処方箋
処方箋1:経営層主導による「心理的障壁」の解体
制度利用に対する「迷惑意識」や、「キャリアに負の影響を与える」という懸念は、制度利用を躊躇させる最大の心理的障壁です。この壁を崩すには、経営層が率先して組織文化の変革を主導しなければなりません。必要なのは、制度を単に整備するだけでなく、積極的に活かす文化を育てる発想への転換です。
■ 評価・報酬体系の抜本的な再構築
一部の企業では、長時間労働や物理的な貢献を重視する評価慣行が残っており、そのために両立支援制度を利用する従業員の貢献が正当に評価されにくい場合があります。これが「制度利用はキャリア停滞につながる」という懸念を生む要因の一つです。この不安を解消するには、時間や場所に依存しない、成果に基づく評価システムを導入し、評価・報酬体系の透明化と再構築を進めることが不可欠です。これにより、制度利用者が「キャリアの停滞につながるのでは」という懸念を抱かずに制度を活用できる環境を実現できます。
■経営層からのメッセージ発信
経営層は、両立支援制度の利用が「ごく自然な選択肢」であり、制度を利用しても「チームへの貢献に何らマイナスにはならない」というメッセージを、社内に対して明確かつ継続的に発信し続けることが大切です。また、トップ自らが制度を利用することも、非常に強いメッセージとなります。
処方箋2:管理職の行動変容と「両立マネジメント」の評価化
組織文化の変革は、現場のマネジメントが変わらなければ実現しません。
■人事評価項目への「両立マネジメント」指標の組み込み
管理職の行動変容を促すため、人事評価項目に「両立マネジメント」に関する指標を組み込むことも有効です。部下の制度利用率、定着率、チームの心理的安全性レベル、ダイバーシティへの貢献度などを評価することで、管理職は、制度利用をネガティブに捉えるのではなく、チームのパフォーマンスを維持し、さらに高めていくための積極的なマネジメント手法として捉えることが可能になります。
■アンコンシャスバイアス研修の必須化
評価者である管理職自身が持つ無意識のバイアスを排除するため、アンコンシャスバイアス研修の受講を必須とすることも大切です。これにより、公平な人材配置や評価が行われる土壌が醸成されます。
ルールから文化へ:真の健康経営の実現
健康経営優良法人として真に企業価値を高めるには、整えた制度を活かす「文化」を育む視点への転換が重要です。組織文化の変革は、アンコンシャスバイアスの認識、心理的安全性への投資、評価システムの再構築、そして管理職のマネジメント能力の高度化という多角的な取り組みによって、実現に近づきます。「ルール」ではなく「相互理解と信頼に基づいた文化」を育むことで、誰もが引け目を感じることなく、最大限のパフォーマンスを発揮できる。それこそが、持続可能な企業成長を可能にする真の健康経営の姿です。
【提供元】 さんぎょうい株式会社
産業医、臨床心理士、保健師、看護師、管理栄養士、理学療法士、社会保険労務士など、医療・健康のエキスパートによるチーム体制で、企業の労働安全衛生と健康経営を20年以上にわたり支援しています。本連載では、当社がこれまで蓄積してきた知見を元に、「健康経営」「両立支援」「女性活躍」に関する実践的な情報を、実際に企業支援の現場で見てきた多様な実例と解決策を取り上げながら紹介していきます。本稿で触れた、真の健康経営へ組織文化を変革を推進するためのサポートについては、こちら(mezame@sangyoui-inc.com)へお問い合わせください。産業医の紹介や、健康経営の認定サポート、女性の健康経営も併せて提供しています。
【編集部おすすめ記事】
■女性は仕事を諦めるべきなのか? 健康問題とライフイベントを突破したRさんの話
■社内で停滞する女性の健康推進、どう突破する? ケーススタディに学ぶリアルな打開策
■働く女性「過剰適応」がメンタルヘルス不調へ発展、健康経営・女性活躍に必要な予防策
■女性ヘルスケア事業で避けたい「アンコンシャス・バイアス」41項目
■働く女性の健康課題も「DEI」、健康経営の職場で広がる新たなトレンド概念























